2017年5月 分界点

内宮への入口、五十鈴川にかかる宇治橋は、日常の世界から神聖な世界へ、そして人と神とを結ぶ架け橋といわれているそうです。


ここに来れることがうれしそうな人たちで華やいだその空間にふさわしくない言葉を放ちました。

妻が抱いたミントをなでていた手を離しながら

周りに聞こえるのは恥ずかしいとも考えていたのですが今となっては自分がどんな声量だったかは覚えていません。

わざと速足で参道の喧騒の中に紛れ込むように妻とミントを置いて車に向かいました。

その場に座り込んでいるのか、追ってきているのか少し気になりましたがそれ以上に冷めていました。


しばらくすると、神様の前でそう思うんだからほんとうにダメなんだ。
振り返ることもなく妙に納得して人ごみを抜けて歩き続けました。

宇治橋の傍らの守衛所というところで声をかけると守衛さんが台帳を差し出してくれます。そこに名前と電話番号を記帳して守衛所の建物の裏手に案内されるとペットを預かるための古いけれどもこぎれいなケンネルが大きいものの上に小さいものと前面を揃えて積んであります。

その場所は五十鈴川に面していて対岸には宇治橋を渡って神域と呼ばれるところを歩いている人の色とりどりの初夏の服装が林の木々の隙間から見えます。

守衛さんは僕の足もとにまとわりつくミントを覗き込んで大きさを確認して一つのケンネルを見繕ってくれました。

顔の高さくらいにあるケージの中を隅々まで見渡してから、ほかのケージに軽く目をやって見繕われたものと比較しこれでいいという風に守衛さんに目をやりながらうなずきました。

抱っこしてミントを顔の高さまで持ち上げケンネルの中に滑り込ませ首まで出していた顔を押し込むようにすっと扉を閉じました。

こんな感じで檻に入れるのはもしかしたら初めてだったかもしれません。

いつもお留守番の時にあげるおやつをケージの中に入れようとすると

「食べ残したりがあったりするとほかの子が食べておなかを壊すことがあるから」

と守衛さんに制止されたのでいつものお留守番の儀式はできないままそこを離れました。


守衛さんの後をついてミントを置いて二人だけで守衛所の表に回り宇治橋に向かいました。

きっとミントから僕たちの姿が見えなくなったであろうあたりからかワンッワンッと吠えはじめ、しばらくするとクンクンともキュンキュンとも聞こえる甘えた声から遠吠えのような声に変わり始めていました。

明らかにいつもとちがう初めて聞く声でした。ずーとずーと休むことなくその声は続きます。

橋を渡って守衛所の対岸を歩いている時にもずっとミントの声が聞こえます。

林の中の道を歩いているときもたくさんの人の砂利を踏む足音の隙間からミントの声が聞こえるのです。

林を奥にすすんでいきミントの声が聞こえなくなっても、まだ耳の奥から離れませんでした。

神宮内の案内図を見ても「どういう風にまわったら最短で戻れるか」で頭がいっぱいです。

妻が遅いのか私が早いのか歩くペースも全然合いません。

妻の声にもうわの空で、返事するのが精いっぱいで、もしかしたら話をさえぎるための相槌をうっていたかもしれません。

休憩所でゆっくりしようという妻に全く同意せず「いくで」と

お守りが並んだ台を覗き込もうとする妻にも「何個も何個も同じようなもの買うなよ」と

「こんなことならミントは家に置いてきた方がよかったよね」

「離れる時間が短くなるように一緒に来た方がいいんだよ」

「短い時間でも知らないところで一人にされるよりなじんだ家で一晩過ごす方がいいと思うけど」

「一緒にいる時間が長い方がいいよ。一晩一人でいるよりも絶対にいい」

「ミントは言葉がわからないから捨てて行かれたとしか思わへん」

「わかってるって(ミントは僕たちが迎えに来てくれることを)」

「わかってたらあんな遠吠えせえへんやん。はじめてやであんなん」

伊勢神宮の中を歩いている間何度もこのやり取りを繰り返してました。


心ここになくお参りをひとしきり済ませて宇治橋を渡って出るころには

聞こえてくる遠吠えも間隔が空くようになっており疲れてきた様子がうかがえました。それでも結構な距離があるのでかなりの声量です。

僕は妻を置き去りにするくらい今にも駆けだしたい気持ちを抑えミントのもとへ向かいました。

守衛さんに迎えに来たことを告げると同時に妻も守衛さんも差し置いて勝手に裏手に進み、顔くらいの高さのあるケンネルの扉を開け腕を差し出し、飛び移ろうかというような勢いでカラダごとなだれ込んでくるミントを受け取りました。

「ごめんね」と言いながらミントを力いっぱい抱きしめミントの喉から出るキューンと甘えた声を胸にいっぱいに吸い込みました。


何年も前からずっと雨にたたかれ風に吹かれても必死でこらえながら揺れていた戸板が倒れたような、パタンと空気を含んだどことなく軽い音を立てた気がした瞬間からそれ以降の全てが切り替わっていったような気がします。